新田義貞の鎌倉攻め
(小手指原古戦場〜久米川古戦場跡〜分倍河原古戦場〜関戸古戦場〜洲崎古戦場〜鎌倉)

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 あまり教科書に載っていない歴史があり、現代の社会にもその足跡がある。そこで、新田義貞が鎌倉攻めのルートを辿ることにしたが、倒幕の旗挙げの地はちょっと遠いので、今回は鎌倉幕府との合戦となった地からスタートして鎌倉までをコースとして紹介します。

新田義貞が生品明神で挙兵
 元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は、上野国新田庄の生品(いくしな)明神(群馬県新田郡新田町市野井)の社前で後醍醐天皇から命により倒幕の旗を挙げた。わずか150余騎で出陣したが、関東の武士はぞくぞくと義貞の軍中に集まり、5月9日の日暮れ時には20万7千余騎の大軍になっていた。    


≪新田義貞が鎌倉攻めのルート≫

 カシミール3Dで作成した地図の使用については、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、
数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号平17総使、第320号)

新田義貞が鎌倉攻めの経過

元号(西暦)
月日
主な出来事 主な史跡 史跡状況
元弘3年
(1333年)

5月8日
新田義貞が生品明神で挙兵する。
新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。わずか百五十騎であったが、足利高氏の嫡子千寿王(後の足利義詮)らも合流して、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせる
生品(いくしな)明神
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生品明神
5月9日 新田義貞が軍兵に忠誠を誓わせた所と伝えられています。新しい道の国道463号線沿いの脇に小さな橋です。
新田軍は、この後、鎌倉街道を脇目も振らず南進していくことになる。
誓詞橋(せいしがはし)
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誓詞橋
5月11日 義貞軍は入間川を越えて小手指原(所沢市)で北上してきた幕府軍と遭遇した。この合戦で義貞方は、300余騎、幕府方は500余騎の犠牲者を出したが勝負は未決のまま、双方とも一旦撤退して陣を敷いた。 小手指原古戦場碑
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小手指原古戦場
小手指原古戦場碑の後ろの小高い丘の頂には、義貞が源氏の白旗を建てかけたと伝える白旗塚があります。 白旗塚
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白旗塚
5月12日 この合戦では義貞軍が勝利して、幕府軍は陣容を建て直すために、分倍河原まで引き退いた。新田方は先制攻撃をかけて久米川の陣を攻め立てたので北条方は敗れて府中の分倍河原に退いた。
 将軍塚や義貞が久米川合戦を前に戦勝祈願に立ち寄った鳩峯神社境内には義貞鎧掛けの松が残されている。
久米川古戦場碑
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久米川古戦場
新田義貞が八国山から指揮をとったといわれる頂に碑がある。 将軍塚
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将軍塚
新田義貞が鳩峰八幡宮に参拝の折り、兜を掛けたという。 兜掛けの松
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鎌倉幕府が関与した証拠ないため、伝鎌倉街道と呼ばれています。 伝鎌倉街道
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伝鎌倉街道
5月15日 十分に休息をとった義貞軍は、鎌倉から北条泰家を大将とする援軍が加わり10万の新手が加わったことも知らず、分倍に陣する幕府軍を攻撃をしかけた。しかし、義貞軍は堀兼(狭山市堀兼)まで、後退せざるをえなかった。その後、義貞の陣営に相模の三浦義勝が国人衆(土豪)を引きつれて参陣した。 分倍河原古戦場碑
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分倍河原古戦場碑
分倍河原の合戦で戦死した武士、3000人を埋葬した塚と伝えられていたが、塚の板碑にある年号からそれ以前であったので、説明文では合戦とは関係はないと伝承を訂正していた。 三千人塚
地図
三千人塚
新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。(富永直樹 作) 新田義貞公之像
地図
新田義貞公之像
5月16日 新田軍は、前日の勝利で油断していた幕府軍を襲い大勝利をおさめた。幕府軍の大将北条泰家は関戸付近(多摩市)で敗死寸前のところ家臣の横溝八郎の奮戦によって、16日の夜鎌倉に逃げ帰った。 関戸古戦場碑
地図
関戸古戦場碑
 鎌倉幕府軍が鎌倉に退くのを助けるために、最後まで新田軍と戦った横溝八郎の墓が、地蔵堂の裏手の庭先に挟まれてあるがたいへん手入れが行き届いている。 横溝八郎の墓
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横溝八郎の墓
鎌倉時代にあった霞ヶ関の柵の跡 霞ヶ関南木戸柵跡
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霞ヶ関南木戸柵跡
七国山の旧鎌倉街道沿いに残っている鎌倉井戸で、新田軍も立寄っていたといわれている。 鎌倉井戸
地図
鎌倉井戸
旧鎌倉街道沿いにある神社 菅原神社
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菅原神社
鎌倉古道は、町田市内で幾つかに分かれていて、その一本が、かしの木山自然公園を通っています。新田軍が、鎌倉へ攻め込む途中で、かしの木山自然公園の見晴らしの良い所で、休息を取り鋭気を養ったいわれいます。 かしの木山自然公園
の鎌倉古道
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かしの木山自然公園の鎌倉古道
5月17日 新田義貞が幕府の倒幕に向かった際に、野営をした地として地元で語り継がれている。 鞍掛の松
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鞍掛の松
新田義貞が鎌倉進撃路の途中に立寄ったと伝えられている。義貞公の像もあります。 大山阿夫利神社
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大山阿夫利神社
5月18日 武将の堀口貞満(さだみつ)と大島守之(もりゆき)が州崎口より攻め込んできました。一方鎌倉方は、赤崎守時(もりとき)を武将として迎え撃ちましたが、60回以上の合戦のすえ、ついに鎌倉側は敗れました。 洲崎古戦場の碑
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洲崎古戦場の碑
この附近は新田義貞の鎌倉攻めの中心地で、鎌倉方は相模守赤橋守時で6万余騎の大軍で、元弘3年(1333)5月18日は一日一夜のうちに65度の河川が行われた激戦地で、世に州崎の戦といわれている。その時の戦死者を葬った。 兜松・八ッ橋
企業の敷地内で非公開
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兜松・八ッ橋
5月21日 新田軍は洲崎から三手に分けて、化粧坂切通し、極楽寺坂切通し、巨福呂坂切通しを攻めるものの両軍一歩も譲らず、さすがに難攻不落の天然の要塞鎌倉は一向に落ちません。 極楽寺坂切通し
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極楽寺坂切通し
5月22日 義貞は自軍を稲村ヶ崎に進め、干潮を待って海岸を廻って鎌倉市内に攻め入ります。そのことから、稲村ヶ崎の龍神に黄金造りの太刀を奉じると海が干上がり道ができたと云う伝説が生まれました。 新田義貞徒渉伝説地
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稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地
新田軍の鎌倉攻めの時、新田方の将・大館宗氏は大軍を指揮し極楽寺坂切通しに攻め入る。ところが北条方の猛反撃で窮地に落ち、宗氏らは奮戦の甲斐なく討死、最後まで残った11 人も自刃した。 十一人塚
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十一人塚
新田軍の鎌倉攻めの本陣となった所でと言われていて、新田義貞が両軍の戦死者のために鎌倉で唯一、建立した寺です。 九品寺
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九品寺
5月23日 北条高時は、一族郎党とともに東勝寺に入り、寺に火を放ち、次々に自刃して果てました。北条高時が切腹したと言われている切腹やぐらがあります。こうして、鎌倉幕府153年の歴史に幕が引かれました。 東勝寺跡
切腹やぐら
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東勝寺跡


参考書:旧鎌倉街道 探索の旅 (上道編、中道編、下道編)

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