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兜松と八ツ嶋
 旧街道を抜けると神戸鉄鋼の工場脇に出ます。そのまま進むと左側の工場敷地内に「 兜松と八ツ嶋」の説明と遠くに兜松と八ツ嶋らしきものがあります。この先の洲崎の戦いの戦死者を埋葬した場所である。
洲崎古戦場
 ここら辺一帯が新田軍と、執権北条守時率いる鎌倉軍が1日に65回も戦った激戦地帯である。新田軍はここで勝利すると一気に前進していった。この近くにあるJR東日本のサッカー場の脇には泣塔があります。宝篋印塔を別の場所に移したところ、戻してほしい泣く声が聞こえた事から「泣塔」と名付けられたという伝承があります。旧街道は、このあと化粧坂切通しに向うが、新田軍が極楽寺坂切通りの戦いに向う。
新田義貞徒渉伝説の碑
 極楽寺坂切通りの戦いで、新田軍の大館宗氏ら11人戦死したため、埋葬した場所が十一人塚である。稲村ヶ崎で、新田軍は海岸を回って鎌倉の市街に入って、九品寺に本陣をおいて北条氏を攻めて、東勝寺にて北条高時が切腹して鎌倉幕府は153年で幕を下ろしたのである。新田義貞が大勢の戦死者を弔うため、本陣跡地に建てたのが九品寺である。最後に、鎌倉街道の起点である鶴岡八幡宮の馬場道に寄ってから帰路についた。
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霊前神社の銀杏も
きれいだ
迂回して神戸製鋼
の脇に出る
「兜松と八ツ嶋」の説明
工場内の為金網越し
兜松と八ツ嶋
工場内の為近寄れず
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最後の激戦地となった
洲崎古戦場
JR東日本のサッカー場脇
にある泣塔
新田軍は極楽寺坂切通しに
上道は化粧坂切通しに
極楽寺坂切通し
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極楽寺切通しで戦った新田軍
の武将の十一人塚
稲村ヶ崎公園 稲村ヶ崎にある
新田義貞徒渉伝説の碑
新田軍は稲村ヶ崎の
海岸から街に入った
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新田軍の本陣があった所で
新田義貞が建立した九品寺
北条軍が自害した
東勝寺跡
北条高時が切腹したという
切腹やぐら
鎌倉街道の起点が
鶴岡八幡宮の馬場


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