旧東海道の保土ヶ谷宿から戸部村や横浜村までの保土ヶ谷道と、日米通商条約により開港した横浜港までの道が横浜道です。横浜道と保土ヶ谷道は紅葉坂上で分岐しており、ここで1つの道になります。2本の道は短い距離ですが、ルート散策しました。
さらに、 旧東海道の保土ヶ谷宿から金沢横丁で分岐して、金沢鎌倉道になります。史跡は少ないですが、金沢道としてルート散策してきました。
《横浜道、保土ヶ谷道、金沢道のマップ》
カシミール3Dで作成した地図の使用については、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、
数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号平17総使、第320号)
(1)横浜道(浅間下〜吉田橋)
浅間下交差点の1つ北寄りの路地が横浜道のはじまりで、「よこはま道」の説明板があります。
「よこはま道」の説明文を転記
安政5年(1858)6月の日米通商条約調印によって開国にふみきった幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
しかし、ミナト横浜の町づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まった。当時は、東海道筋から、横浜への交通はまことに不便を極めたことから、幕府は、東海道筋の芝生村(現:浅間町のこの地点)から横浜(関内)に至る「よこはま道」と呼ばれる道路を開いた。
これは、芝生から湿地帯であった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通ずる道路を築く共に新田間・平沼・石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂・野毛の切り通しを開き、野毛橋(現:都橋)、太田橋(吉田橋)を架けたものである。
記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同程度の幅員であったものと考えられる。
なにしろ、工期3ヶ月の突貫工事であったことと、橋材が杉と松を使用した仮普請であったことから{3年ももつまい・・・」と噂されたが、それでも戸部村までの経費で、4470両かかった。
新開地横浜への主要路として大いに賑わい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりと共に大きく変り、わずかに往時の面影をとどめるのみとなった。
新田間橋を渡ると1つ南寄りの路地を進み、元平沼橋に出ます。線路脇には「横浜道」の案内板が両側にあります。線路を平沼橋で渡り平沼商店街を進むと京急線で廃止された平沼駅跡があります。そのまま進んで戸部1交差点で広い道に出ますが、ここが保土ヶ谷道と横浜道の分岐するところです。そのまま進むと野毛切り通りを抜けて、野毛坂で左折します。
都橋を渡り野毛本通りを進むと吉田橋に出ます。交差点の中央に史跡の吉田橋があり、鉄の橋として吉田橋が復元されています。また、根岸線のガード下に「鉄の橋」の説明
と「ブラトンと横浜」の説明があります。