横浜の史跡案内 |
横浜の史跡(読売新聞の「港を碑楽」) 横浜港の開港150周年(2009年)を記念して、横浜に由来した史跡を案内しようと思います。なお、読売新聞に『港を碑楽』というシリーズで、横浜の史跡を案内していますので、それに沿って紹介していきます。なお、新聞の記事は著作権があるので、ここではタイトルの紹介だけとし詳細な記事内容は図書館などでお読みください。 横浜発祥の地を巡るも参照ください。 |
史跡の名称 | 史跡の紹介 | 史跡の状況 | 港を碑楽 (読売新聞) |
日米和親条約調印の地 |
1853年(嘉永6年)、東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーは米大統領の親書を幕府に渡して開国・通商を求め、1年後の1854年2月13日(嘉永7年)に再来日した。幕府は、横浜村に応接所を設置して、協議の末、全12箇条からなる不平等な日米和親条約を締結した。日米和親条約は、江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した和親条約で、日本側は林復斎(大学頭)、アメリカ側はマシュー・ペリーが調印した。
【場所】開港記念公園内 ⇒ 地図 |
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史跡・英一番館跡 |
安政6年6月(1858年7月)に横浜が開港した年に、イギリス人が居留地一番館において貿易を始めた。その建物を人々は「英一番館」と呼んでいたという。イギリスの『ジャーデン・マジソン商会』の跡で、安政六年、ケスヴィックを支配人として、外国人居留地の入口に建てられた。
【場所】シルク会館前 ⇒ 地図 |
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近代下水道発祥の地 |
明治10年頃の下水道のマンホールだっだようです。当時の山下町辺りは外国人居留地だったため、煉瓦の下水道が張り巡らされていたようです。写真は、その遺構が保存されているところです。
【場所】開港記念公園内 ⇒ 地図 |
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リチャード・ヘンリー・ブラントン胸像 |
日本大通りの正面にある横浜公園の中に、リチャード・ヘンリー・ブラントン胸像があります。彼は、明治元年に来日して、明治政府により横浜の都市計画を関わったようです。港崎遊郭の大火災を教訓に、日本大通りは道幅を広くとって、防火道路にしたと言われています。
【場所】横浜公園内 ⇒ 地図 | ||
鋳鉄製の大砲 |
開港資料館の脇に、記念に置いてあります。この大砲には謎があるようで、東インド会社所有の船に備えてあったカノン砲ということですが、なぜ、埋めたのかが謎なのです。関東大震災の時に埋もれたという説があり、貿易会社の跡地から掘り出されたそうです。それも3門も出てきたそうです。1門は、ペリー来航で横浜警護を担当した松代藩のものとも言われています。
【場所】開港記念公園内 ⇒ 地図 |
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史跡・神奈川運上所跡 |
1858年に締結した日米修好通商条約に基づいて関税と外交事務を扱いために運上所が設けられた。1872年に横浜税関に改められた。運上所跡には標柱しかなく、現在では、塔のある横浜税関(1934年建築)に移設しました。
【場所】県庁敷地内 ⇒ 地図 |
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電信創業の地 |
NTTの前身である電電公社の電信創業の地が横浜にある。ペルーがお土産に持ってきたものだそうです。
【場所】横浜地方検察庁前 ⇒ 地図 |
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外国郵便創業の局 |
横浜が開港された時、外国との郵便や通信は各国の領事館や海外の商社が行っていたようです。その事業を順次、明治政府が行うように切り替えていき、外国郵便を扱うようになったのが、現在の横浜港郵便局の前身です。
記念碑としてのプレートは電信創業の地と交差点を挟んでハス向いにある横浜港郵便局の壁にあります。
【場所】横浜港郵便局前 ⇒ 地図 |
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消防救急発祥之地 |
大桟橋通りの歩道の脇に何気なく消防救急発祥之地があります。ここから階段を下りていくと当時の地下貯水槽の中を見ることできます。ここの消防署には、3台のポンプ車があったということです。消防救急発祥之地の上には旧居留地消防隊貯水槽と表示されています。ここから階段を下りていくと当時の地下貯水槽の中を見ることできます。
【場所】大桟橋通り脇 ⇒ 地図 |
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電話交換創始之地 |
大桟橋通りに沿いの歩道に電話交換創始之地があります。今風に言えば、当時のITの中心地でしょうか。歩道の手間にあるのが「電話交換創始之地」の碑ですが、歩道越しにビルの外壁にモニュメントがあり、一体化しているように見えます。それに何が意味があるかはわかりません。
【場所】大桟橋通り脇 ⇒ 地図 |
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横浜町会所跡 |
町会所とは、現在の市役所や町役場のような役割をしていたようです。説明板によると、明治7年(1874年)に竣工した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市制施行の明治22年まで横浜も町政を執った町会所でした。「時計台」の愛称で親しまれたが、消失したため開港50年を記念して現在の建物が大正6年竣工して、現在の開港記念会館に至る。
【場所】開港記念会館脇 ⇒ 地図 |
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岡倉天心誕生の地 |
横浜市開港記念会館の脇に、「横浜町会所跡」と並んで、左側に「岡倉天心生誕之地」の碑があります。岡倉天心とは、明治時代を代表する美術評論家で、日本画家を育てたことでも有名である。福井藩の貿易政策で横浜に常駐していた藩士達の活動拠点であった石川屋がこの地にあり、天心はここで生まれ10年間ほど横浜で生活していたといわれている。
【場所】開港記念会館脇 ⇒ 地図 |
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吉田橋関門跡 |
昔は、川に架かる橋でしたが、今は高速道路の上に吉田橋があります。開港当時は、横浜港は長崎の出島のようになっており、生麦事件ほど大事件ではありませんが、外国人を襲撃する事件が多く発生してことで、外国人の警護のために設けられたという。
【場所】関内駅前 ⇒ 地図 |
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鉄の橋 |
横浜寄りのガード下にある『鉄の橋』という説明板が立っており、その中に書かれています。吉田橋は明治2年に出来て、日本で2番目の鉄の橋と言われています
【場所】関内駅前 ⇒ 地図 |
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近代街路樹発祥之地 |
慶応2年に大火災の後の再建計画の中で、馬車が通れる道の造成することになり、そのときに各商店が競って柳や松の街路樹を植えたという。その道が馬車道であり、「近代街路樹発祥之地」の記念碑を開港120周年を記念して建てられたという。
【場所】関内駅前 ⇒ 地図 |
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牛馬飲水槽 |
昔、鉄道が開通するまでは横浜に入るのに野毛山から吉田橋を通ってくるルートだったようです。そのルートで、陸上から物資を運んできた馬や牛などのために牛馬飲水槽が何箇所か設けられていた。
【場所】六道の辻通り ⇒ 地図 |
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アイスクリーム発祥の地 |
この像があるところに町田房造がお店を出したことで、アイスクリーム発祥之地となっているが、どうも詳細は、日本初はアメリカ人リズレーが最初であったようです。しかし、氷をアメリカから持て来ていたので高価であったため、日本で氷を供給できるようになって、町田房造が初めて、その氷でアイスクリームを作ったということのようです。
【場所】馬車道通り ⇒ 地図 |
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日本写真開祖の碑 |
日本写真の開祖が建立されてから、史料がいろいろ出てきてことで訂正されており、万延元年にアメリカ人のフリーマンが日本最初の写真館を開設して、1861年に事業を譲渡された犬飼玉川が両国に写真館を開いたのが、日本人最初の写真家となったという。
【場所】馬車道通り ⇒ 地図 |
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神奈川県電気発祥の地 |
明治23年10月(1890年)横浜共同電燈会社が、この地に火力発電所を建設し、神奈川県で初めての電力供給を開始しました。当時の発電所は出力100キロワットの石炭火力で、お客さまは700軒でした。
【場所】横浜市役所の先 ⇒ 地図 |
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中居屋重兵衛店跡 |
横浜開港当時の貿易は生糸が最大の輸出品だったのでしょう。その生糸貿易商の「中居屋重兵衛店跡」の記念碑が東京都民銀行横浜支店脇にあります。中居屋重兵衛は群馬県の出身で開港直後に横浜に進出して、生糸貿易の過半数を占めていたという。(
【場所】都民銀行脇 ⇒ 地図 |
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ヘボン屋敷跡 |
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここで施療所を開いたという。その後、現在の横浜市立大学病院になっている。文久2年(1862年)に横浜居留地39番地に移転し、幕末明治初期の日本文化の開拓につくした。聖書の翻訳、和英辞典の編さん、医術の普及などがそれである。昭和24年に碑が建てられた。
【場所】合同庁舎前 ⇒ 地図 |
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ホテル発祥の地 |
大桟橋通りに面したレストランの前に、ホテル発祥の地の碑が建っていました。建てられた日付を見てみると、最近のようで平成16年とありました。また、建てたのはレストランに関係している人たちのようで私設の説明板のようです。新聞記事では信憑性に疑問を投げかけていた。
【場所】大桟橋通り沿い ⇒ 地図 |
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西洋理髪発祥之地 |
− ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする − 安静の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか政府の「断髪令」に先がけ、明治2年(1069年)横浜に我が国初の「西洋理髪店」が開業され、欧米風「サンギリ頭」は文明開化の一翼を担うこととなった。』 【場所】山下公園内 ⇒ 地図 |
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日本国新聞発祥之地 |
中華街の関帝廟通りの歩道に、「日本国新聞発祥之地」の碑が建物側に向いて建っています。1850年の開港の時に、米国領事館の通訳として帰国した浜田彦蔵が、海外のニュースを翻訳、編集して日本としてはじめて新聞を1864年に創刊したことを記念した碑があります。
【場所】中華街内 ⇒ 地図 |
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西洋歯科医学発祥の地 |
万永元年(1860)に、歯科医師として来日したクラーク博士が明治14年に診療所を開設したのが始まりです。クラーク博士は日本人の歯科医師育成に尽力したことが高く評価されて日が出来たようである。しかし、碑の建っている場所の由来は不明で、博士は上海と横浜を行き来していたので、定住したのは明治15年以降のようで合う。
【場所】神奈川県駐労会館前 ⇒ 地図 |
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メダリオン |
最初フランス軍が駐屯していたところが、撤退後にフランス領事館となった。その領事館の外壁あった装飾品が、港が見える公園のフランス山地区にあるフランス橋の下に展示されています。
【場所】フランス橋 ⇒ 地図 |
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旧英国海軍物置所護岸跡 |
開港時に駐留した英海軍がこの地に物置所を作った護岸が保存されて記念碑があります。開港当時は、山手の北端に位置して、海に面していたという。
【場所】ドン・キホーテ裏 ⇒ 地図 |
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横浜ボーリング発祥の碑 |
日本で最初のボーリングは長崎のようで、横浜は2番目だったようです。碑の建ってのは、港の見える丘公園のフランス山地区にあります。 【場所】港の見える丘公園のフランス山地区 ⇒ 地図 |
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クリーニング業発祥の地 |
岡沢直次郎氏が横浜元町に清水屋を開業して、慶応三年に、脇沢金次郎氏がこれを継承し、近代企業化の基礎を成したという。 【場所】谷戸坂を少しの上った左側 ⇒ 地図 |
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近代劇場発祥の地 ゲーテ座跡 |
港が見える丘公園の入口の前にデーテ座跡がある。ゲーテ座は1870年に出き、収容人員は350人のわが国初の本格的演劇場であった。関東大震災で倒壊したまま再建されなかったところ、1980年に岩崎学園が博物館として再建された。 【場所】みなとが見える丘公園前 ⇒ 地図 |
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山手80番館遺跡 |
山手本通のエリスマン邸から元町公園に下る途中に、山手80番館遺跡があります。山手周辺にある西洋館の中で、関東大震災後に再建されないでそのまま残っているのが、山手80番館遺跡です。 【場所】元町公園内 ⇒ 地図 |
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ジェラールの亙工場と水屋敷跡 |
元町公園内にある「ジェラールの亙工場と水屋敷跡」は、ここに湧き水があることからできたようです。説明板によれば、明治初年フランス人アルフレッド・ジェラールが、居留地建設にともなう西洋亙や煉瓦を製造した工場並びに水屋敷の跡ということです。 【場所】元町公園内 ⇒ 地図 |
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ジェラール水屋敷地下貯水槽 |
ジェラールの水屋敷は、横浜の市街地の井戸水は塩分を含んでいて、飲用には適していませんでした。丘陵地帯は良質の湧水が多く、ジェラールは山手の麓の水源を確保して、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供給した。地元の人は「水屋敷」と呼ぶようになった。その水屋敷の地下貯水槽が今も保存されています。 【場所】元町公園の手前 ⇒ 地図 |
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ブラフ溝 |
山手地区は丘陵地帯であるため、昔は雨水を流すのに坂道の脇に石造側溝を設けていたという。その名残はほとんどないですが、元町公園沿いの額坂辺りに一部、残っています。また、元町公園の坂の上には写真のようにブラフ溝の一部が切り取られて保存されています。 【場所】元町公園内 ⇒ 地図 |
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麒麟麦酒開源記念碑 |
北方小学校の隣の小さな公園にその面積にしては大きすぎる巨大な石碑があります。あまりにも大きすぎて、以前に来た時には違うものだと思ってしまいましたが、記念碑の上部の文字を読めば、確かに『麒麟麦酒開源記念碑』と書いてあります。石碑の説明は漢文で読みづらい。 【場所】北方小学校の隣の公園 ⇒ 地図 |
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日本吹奏楽発祥の地 |
代官坂を越えてきた所に妙香寺があります。参道の入口には国歌君が代由緒地の碑がありますが、坂を上って境内に入ると右側に日本吹奏楽発祥の地の石碑があります。明治維新後に、薩摩藩により西洋軍楽の導入を決めて、この妙香寺で伝承したのが日本の吹奏楽が始まりだという。碑には次のようの記されています。
【場所】妙香寺境内 ⇒ 地図 |
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日本庭球発祥之地 |
そもそも1870年(明治3年)山手公園が居留地に住む外国人のために公園をこの地にオープウンさせた。しかし、その賃借料の負担が大きく、その軽減のためにテニスクラブを開き、公園とともに管理運営するようになったという。公園内には、テニス発祥記念館もあり公園とテニスの歴史について展示されています。
【場所】山手公園内 ⇒ 地図 |
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日本最初の洋式公園 |
開港後の横浜で、もっとも早く整備された公園が山手公園でだった。居留地に住む外国人たちによって整備されて、1870年(明治3年)に開園したという。上野公園や芝公園よりも3年ほど早くできて、近代の洋風公園として指定一号となった。近くに妙香寺があるが、もともとこの敷地は妙香寺境内の一部だったようです
【場所】山手公園内 ⇒ 地図 |