市内〜衣笠城址〜満昌寺〜清雲時〜佐原城址〜怒田城址〜市内

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 横須賀の手前の逸見で16号線を右折して池上十字路を通って、小休憩のつもりで横須賀しょうぶ園に立寄りました。しかし、ちょうど藤が満開で特有の甘い香りが漂っていましたので、写真を撮りながら長時間のさんさくとなりました。藤のほかにもオオデマリやシャクナゲもあります。
 しょうぶ園の入口付近に横須賀古道や衣笠城址と三浦氏の案内板があり、それを参考に衣笠城を中心に散策することにしました。

《三浦一族ゆかりの地のコース》
三浦一族ゆかりの地のコース
 カシミール3Dで作成した地図の使用については、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、
数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号平17総使、第320号)

横須賀古道
 三浦半島の古道(8世紀の頃)は奈良(平城京)から常陸(現在の茨城県石岡市)へ至る官道は、鎌倉付近から三浦半島を通り、古代の走水から海を渡り、房総半島へ通じていました。
 鎌倉時代には古代の道筋に沿って、三浦半島中央部と鎌倉を結ぶ道が幹線として発達し、鎌倉道と呼ばれていました。鎌倉道やその始動沿いには三浦半島を支配した三浦氏の城山や館が点在していました。
 江戸時代に入り、享保6年(1721年)浦賀に奉行所が置かれて以来、江戸と浦賀の往来が盛んになり、その道筋が浦賀道といわれました。当時の浦賀は、各地から集まる廻船の荷を商う廻船問屋や干鰯(ほしか)問屋などで大いに栄えていました。

衣笠城址と三浦氏
 衣笠城は鎌倉幕府成立に巧のあった三浦一族の本拠地でした。それは自然の地形を巧みに生かした山城で、周囲には怒田(ぬた)城、佐原城、大矢部城、平作城、小矢部城など複数の支城を配していました。
 三浦氏の始祖・平太夫為通が康平年間(1058-1065)に築城し、4代三浦大介義明の時代に頼朝の旗揚げに関連して起こった衣笠合戦で知られていますが、7代泰村が北村氏との勢力争いに破れ、廃城となりました。
 衣笠城は、当時、海に接していたのではないか、そして、怒田城は水軍の本境地であったのではないかといわれています。


沢山隊道 横須賀しょうぶ園 園前の案内板 しょうぶ園の案内
兄弟トンネルの沢山隊道
(出口は別な所に出る)
横須賀しょうぶ園 園前の案内板 しょうぶ園の案内
白い藤棚が見える 園内は花がいっぱい 棚の白い藤 広い園内の藤
白い藤棚が見える 園内は花がいっぱい 棚の白い藤 広い園内の藤
藤棚の濃い色の藤 藤棚の濃い色の藤 藤棚の藤 藤が満開
藤棚の濃い色の藤 藤棚の濃い色の藤 藤棚の藤 藤が満開
満開の藤 満開の藤 満開の藤 満開の藤
満開の藤 満開の藤 満開の藤 満開の藤

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