市内〜衣笠城址〜満昌寺〜清雲時〜佐原城址〜怒田城址〜市内

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 しょうぶ園前の新しい道はまだ未完成で一端、衣笠駅に出て衣笠十字路を経由しなければなりません。新しい道が完成すれば衣笠インター入口に直接出れるようになるのでしょう(推測)。
 衣笠城址へ行くにはハイキグコースからも行けるのですが、山科台に行く道には入ってすぐに右折して大善寺から行くことをお勧めします。こちらの方は馬返しの坂の急坂を上ると不動の滝や物見岩などもあり、衣笠城址の碑だけでなく土塁跡や井戸なども残っています。

衣笠城址
 山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に千記で田半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通が戦攻によって三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中心地である要害堅固のこの治に両川を自然の堀として、康平年間(1058-1064)に築城されたといわれ、以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。
 治承四年(1180)八月源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。丘陵上の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達する。居館は水の便のよいこの付近の平場にあったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。さらに、その裏山がこの城の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられ平場で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残っている。

磨崖仏
 満昌寺の手前の坂を上りゴルフ練習場の手前にあり満昌寺の北側山腹に彫られたのが磨崖仏である。この磨崖仏は満昌寺北側の丘陵山腹に彫られたもので西向きの岩肌に合計三面ある。そのうち二面に仏像が、他の一面に直線的な溝が掘られている。左側の面には直径20cmの円内に蓮華座に坐した7隊の仏像が並んでいる。中央の面には高さ40cmの阿弥陀尿来立像一体が線刻されている。写真では見にくいです。

満昌寺(三浦大介義明廟所)
 満昌寺は建久五年(1194)九月、源頼朝の意思に基づき三浦大介義明、追善のため創建されたという。御霊神社は階段の上にあり入ることが出来ませんでしたが、神社の背後には三浦大介義明の首塚があるという。また、社内には三浦大介義明坐像もあるという。


衣笠城址へのハイキングコース 衣笠城址への案内 衣笠城址への案内 大善寺前に自転車を置いてここから上る
衣笠城址への
ハイキングコース
衣笠城址への案内< 衣笠城址への案内 大善寺前に自転車を置いて
ここから上る
大善寺の本堂 阿弥陀三尊像の説明 衣笠城址への案内 衣笠城址の説明
大善寺の本堂 大善寺の
阿弥陀三尊像の説明
衣笠城址への案内 衣笠城址の説明
衣笠城址の碑 衣笠城址案内図 三浦大介義明公八百年記念碑 衣笠城址の石碑
衣笠城址の碑 衣笠城址案内図
石垣や天守閣はない
三浦大介義明公
八百年記念碑
衣笠城址の石碑
太田和のつつじ公園 この後、来た道を戻る 坂を上り磨崖仏に寄る 保存された岩(右側)
太田和のつつじ公園
もうつつじの季節は終り
走ってきた道の方面
この後、来た道を戻る
大矢部に戻り満昌寺手前
の坂を上り磨崖仏に寄る
保存された岩(右側)
保存された岩(左側) 彫られた7体の仏像 満昌寺の山門 三浦大介義明廟所の碑
保存された岩(左側) 辛うじてわかる
彫られた7体の仏像
満昌寺の山門 三浦大介義明廟所の碑
満昌寺の本堂 廟所へ入れませんでした 廟所への石段 一部しか見えない廟所
満昌寺の本堂 三浦大介義明廟所
入れませんでした
廟所への石段 一部しか見えない廟所

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