市内〜衣笠城址〜満昌寺〜清雲時〜佐原城址〜怒田城址〜市内

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 清雲寺から少し久里浜よりの公園にいくとその公園の一角に腹切り松という史跡があり、宅地開発のときに腹切り松公園となった。
腹切り松(三浦大介の腹切り松)
 治承4年(1180)の衣笠合戦の際、三浦一族の家長として三浦大介義明は衣笠城と運命を共にしたというが、言い伝えによれば、城からこのあたりの松樹の下で切腹自害を遂げ武名を後世に残したという。以前は古松があったようだが、宅地開発で植え替えたようである。

 最短コースで行く道がわからず少し遠回りでも佐原交差点を経由して行くことにした。
満願寺(佐原十郎義連の墓)
 満願寺は三浦大介義明の子佐原十郎義連によって建てられた。本堂に左側の石段を上ると観音堂があり、そこには観桜菩薩、地藏菩薩、不動明王、毘沙門天立像があったが、現在は収蔵庫に移設された。

佐原十郎義連の墓
 観音堂の右側には佐原十郎義連の墓があり、19才で源平合戦に参加した武士で頼朝や北条政子から深く信頼されていた。

 衣笠合戦とは、治承4年(1180)、源頼朝は平家打倒の兵を伊豆で挙げました。三浦義明は、三浦義澄、和田義盛らを頼朝に加勢するために向わせましたが、増水した川で足止めされてしまった。その間、頼朝は石橋山の合戦で敗れて頼朝は山中に逃れてから房総半島に渡った。一方、頼朝敗走の報を受けた三浦軍は衣笠城に引き返しますが、途中の鎌倉の平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇しました。一旦は兵を引きましたが、平家方の大軍に衣笠城を攻められて三浦勢は落城した。三浦一族は房総半島に逃れたが、三浦義明は残り討ち死にした。

佐原城址
 佐原城は4代三浦大介義明の子佐原十郎義連が築いたといわれている。当時は深い入り江となっていて、対岸には怒田城があった。

怒田城址
 三浦一族は衣笠城を本城としていくつかの支城を築き、その1つに怒田城(又は奴田城)があり対岸の佐原城とで東方面の守りを固めたという。

今回は道順や存在場所がわからなくウロウロしてしまいましたが、最後に、くりはま花の国に行ってポピーの花を観賞してから帰路につきました。


腹切り松公園 腹切り松の史跡 三浦大介戦死之處の石碑 ホタル生息地
腹切り松公園 公園の一角に三浦大介
の腹切り松の史跡
三浦大介戦死之處の石碑 佐原交差点経由で散策中
ホタル生息地を発見
満願寺の入口 満願寺の由来 満願寺の本堂 句碑
満願寺の入口 満願寺の由来説明 満願寺の本堂 句碑
石段脇の句碑説明 佐原義連廟所の説明 観音堂への石段 佐原義連廟所
石段脇の句碑説明 佐原義連廟所の説明 観音堂への石段 その観音堂の右側に
佐原義連廟所がある
高速道路の高架下 崖の細い散歩道を上る 散歩道に出る 佐原城址に出る
横横高速道路の高架下を潜る 崖の脇に細い散歩道があり
自転車を置いてここを上る
フェンス沿いに行くと
散歩道に出る
少し行くと佐原城址に出る
佐原城址の説明 佐原城址の石碑 JR久里浜駅前のポピー 吉井貝塚の説明文
佐原城址の説明 佐原城址の石碑 JR久里浜駅前のポピー 吉井貝塚の説明文には
怒田城跡でもある事が記載
吉井貝塚公園 集落跡の説明 怒田城跡の空堀の標識 怒田城跡の説明
怒田城跡の広場
(吉井貝塚公園)
弥生時代から古墳時代
の集落跡の説明
怒田城跡の空堀の標識 怒田城跡の説明
昔の地形写真
第二貝塚の標識 吉井貝塚の説明 くりはま花の国 ポピーが咲き始めていた
第二貝塚の標識 吉井貝塚の説明 くりはま花の国へ行く ポピーが咲き始めていた
色々なポピー 色々なポピー 色々なポピー 色々なポピー
色々なポピー 色々なポピー 色々なポピー 色々なポピー

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